言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

アフォーダンス

小学校の時少年野球をやっていた。滅茶苦茶嫌で、週末に近づくと毎週悲壮な気分になっていた。特に嫌だったのが、コーチが意味不明な事をいう事。『ボールを良く見て打て。』やってみればすぐ分かるが、ピッチャーの手から離れた瞬間ならまだしも、打つ瞬間自分を横切る球を見ながら、さらにバットを振るなんて出来るわけが無い。しかしなぜか6年生になる頃には、ちゃんと打てるようになっていた。しかしやっぱり球なんか見えていない。自分の体を横切る頃には球が見えなくなるのは同じなのだが、何故かバットが当たるようになっていた。

アフォーダンス的な観点から言うと、『バットが球を見ていた』とでも言うのだろうか。ピッチャーの動き、球の初速、偶然バットが球に当たったときの触感。そういう物が経験で組み合わさり、球が打てるようになる。ちなみに目が反応を受け取ってから筋肉が動作を始めるまで0.1秒程かかるそうなので、『ボールを見ていたら打てない』という経験は科学的に正しい(ボールは時速 80km で 0.1秒のあいだに 2m 進む)。

こないだ書いた『アフォーダンス-新しい認知の理論』isbn:4000065122 だが、新幹線の中で眠れなかったのでもう一度読んでまた感動してしまった(という事はこのわずかな間に書いてあった事を忘れたのだろう)。ここに書いてある事は、それこそ古典力学量子力学の違いくら凄い事のように思えるのだが、どれくらい一般的な話なのだろう。それとも俺が知らんだけか。書いてあることは、要するに見たり聞いたりするためには体を動かす「必要がある」という事。筋肉組織を使わず目だけで見たり、耳だけで聞いたりすることは出来ない。

これが正しければ、バーチャルな体験、パソコンの UI やゲームや CG 映画の評価基準が変わってしまうのではないか?画面や音を本物に似せれば豊かな体験が生まれるのはマヤカシだと薄々誰もが気づいている事だが、ジェームズ・ギブソンは半世紀も前に整然とその理由を説明出来る理論を作りあげていたなんて。どうせ細かく絵を書いてもユーザはそんなもの『見て』いないのだ。うーむ。本はちゃんと読むものだなあ。

そのほかにも、僕が長年来疑問に思っていた様々な疑問が氷解してしまった。例えば、『見る事は見られる事である』という良くある標語。感覚的には理解できる非常に大事な話だと思うのだが、演劇やアートの人が書くとどうもいかん。これはポエムの話ではなく。生物学的な話だったんだ!とこの話はまた今度。