言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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メディア

「"メディア戦争"時代を考える:多メディア時代の世論形成 」と題されたトークセッションに行って来た。http://www.lab7.kuis.kyoto-u.ac.jp/sifair2005/talk_session.html 新聞社、テレビ、フリーランサー、学者とそれぞれの立場からメディアについて語ってゆき、それを主催者の喜多先生がパワポを駆使しながら画面にまとめて行くと言った趣向だった。メディアの現場に直接関わらないと出てこないような沢山の面白いエピソードを交えつつ、新聞テレビに代表されるマスメディアがインターネット=パーソナルメディアに対立・移行してゆく現在において、それぞれの特徴と役割は何だろうという話を軸に進んで行った。

プロジェクタの画面を真ん中に、左にニューメディア側の先生二人、右に新聞テレビの先生二人という配置の仕方は最初なんてあからさまな感じかと思ったが、とても見やすくて気が利いていて、三時間がすぐに過ぎて行った。質問タイムが最後の短い時間しか無かったのだけれども、きっと会場からはもっと質問したい人がいたんじゃないだろうか。

考えた事を二つ書く。

まずは価値観の多様化の話。流行歌らしい流行歌が生まれなくなった事に象徴されるように、価値観が多様化してきて纏まりとしての「世論」がよりとらえにくくなってきたという話。本筋とは関係無い話だけど。僕は、反対に、流行歌が生まれない事だけをとって価値観の多様化を言うのは言いすぎだと思っている。子供からお年寄りまで同じ歌を口ずさむ時代を経験していないので何とも言えないが、「ガンダム」や「ウルトラマン」のネタが20年以上通じる僕らは十分画一的な価値観の中に居ると思うんだけど。

次に、もっと長い視点でメディアを見るやり方は無いかという事。今、わずか数年のブログ史だけでインターネットを語ると失笑を買うだろう。インターネットはブログの前からあるのだ。同じように、メディアはテレビや新聞以前から存在していて、むしろ情報の媒介物としてのメディアの歴史の中では新聞さえも十分に新しいはずだ。インターネットのような小さなメディアは一見新しくて特殊なような気がするが、メディア史の中ではマスメディアの方が新しくて特殊なのでは無いだろうか。

このことは、インターネットメディアの経済基盤を考える上で、特に大切な事だと思う。ブログ発信者など、個人の収益モデルについては多くの議論があるわけだが、私たちは、小さなメディアを生かす方法、付き合う方法を既に知っていて、それは歴史の中にあるはずだ。なぜなら、今より人口が何十倍も少なくて、地理的条件によって地方に分断されていた時代から、それなりのメディアをわれわれは保有してきたわけだから。

例えて言うと、ミノフスキー粒子によって有視界戦闘が必要になった宇宙世紀のように、技術の進歩によって人々の行動様式を過去に学ばねばならない事があるという事だ。