言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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アテンションの慣性とファイナンス

なんか暇なのでくだらない事を書きます。

最近 The Attention Economy isbn:157851441X という本を呼んでます。どうもこのアテンションという言葉は前に一度流行って廃れたみたいだけど、内容はまだまだいける。一応書くと、昔は情報が貴重だったが今では情報が溢れ、受け取る人の時間の方が足りなくなったという話。まだ半分くらいしか読んでないけど書いて有りそうな事を想像して未来予想などを書きます。

この本は情報についてだけ書いてあるけど、実はクリス・アンダーソンによると技術革新によって情報だけでなく物もどんどん安くなって限りなく無料に近づくらしいので、そういうスター・トレックみたいな未来を考えます。このような世界では大抵生活に必要な物は無料で手に入る。なぜなら、わざわざお金をやり取りする手間より物を作る手間の方が安くなってしまうからです。そんな馬鹿な?と思う人はなんで多くのウェブサイトが無料なのか考えてみるといいです。ようするに、「インターネット見物料」を徴収しようとしても一回あたりの値段が安すぎて取れない。こう言った事が衣食住全て起こります。しかも、アラフォーの私が生きているうちに起こるんじゃないかと思っています。

これは消費の面から見た技術革新の良い点ですが、生産の面から見ると悲惨な面も見えてきます。技術革新により人手が無くても物が作れるようになるので、わざわざ人を雇って給料を払うより遊ばしておいて国民皆生活保護にする方が安上がりという事になります。これで貴族気分が味わえる人はいいですけど、実際は生かさず殺さずのギリギリ状態になるでしょう。なぜこういう事が起こるのか想像を広げてみます。

なんとなく自由世界では個人の資質や努力が社会的地位を決めるという建前になっています。しかし、実際には個人の実力以上に社会的地位には差がつきます。底辺層の生まれというだけで未来に希望を無くしたり、身分不相応に高い地位を与えられたために腐敗するという事が簡単に起こります。のんびりと農業や狩猟をしていた時代なら、個人の能力差がそのまま収入に結びついていたかもしれません。しかし社会が複雑になればなるほど、偉い身分としょぼい身分の差はどんどん差が広がっていくのです。これは、アテンションが希少な資源で有ることとアテンションに慣性がある事が原因じゃないかと思いました。

アテンションが希少であるとは、情報や物が沢山与えられても沢山受け取る事が出来ないという事です。すると、物や人の良し悪しを判断するのに偶然の要素が大きくなります。アテンションに慣性があるとは、一旦面白いテレビを見だすと他の事が出来なくなるように、人は一度思い込むとなかなか変えられない性質があります。さらに複数の人間が集まると人気はどんどん増幅されるてゆきます。世の中が物質的に豊かになると、希少なアテンションが価値観に占める割合はどんどん大きくなりますから。全部合わせると一度偉くなった人はどんどん偉くなり、一度落ちるとどんどん落ちてゆくのです。

こういう事は正常な市場経済では起こりません。市場経済では合理的に判断するバラバラな市場関係者を仮定することで程よく資源が分配されます。しかしアテンションという特殊な資源は、放っておくとどんどん極端な方向に進んでいくのです。そこに諸悪の根源とビジネスチャンスがあります。

今考えているのは、アテンションを融資する方法が無いかという事です。普通の経済では、融資によって資源を余っている所から足りない所に一時的に移転する事で長期的に利益を得る事が出来ます。なぜ融資が必要かというと、そもそも能力のある人が必要な資源を持っているとは限らないからです。アテンションにも同じ事が言えます。個人が社会的地位のせいで不当に低い評価を受けていたり、教育の機会が奪われている場合、融資によって利益を生む可能性があります。と書くとまるで奨学金の話のようですが、これは広告に近い話です。広告というのは、もし商品が優れていれば将来受けるべきアテンションを現在に先取りして受ける融資と言えます。つまり、個人や商品についてアテンションの偏在を裁定取引するシステムがあるのではと思っています。

と、ここまで書いて疲れたので今日はおしまい。