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とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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Google は新世界のメディチになるか?

こないだ自他共に認める Apple ファンである B 氏が AppleGoogle の違いについてこう語った。AppleGoogle はどちらも魅力的な商品を提供しているが商品の種類は全く違う。Apple が高度な技術で素晴らしいデバイスを顧客である私たち消費者に提供しているのに対し、Google の顧客は消費者では無い。Google の顧客は広告出稿元であり、Google の商品は私たちのプライバシー情報だ。Google はユーザーを客に売っている。Google はモラルを反する事をやっているのだ。

私もここまで極端では無いけど、なんとなく広告について嫌悪感を抱いていた http://d.hatena.ne.jp/propella/20100416/p1。しかし、他人からこの嫌悪感を聞くと、逆に広告によるビジネスモデルが最高に素晴らしく未来があるように思えてきた。もしかして、私たちは歴史上何度も繰り返してきタブーに直面しているのでは無いか?もちろんタブーは守るより破る方が楽しい。そしてタブーの向こうに意外な新世界が広がっているのではないか?

それは昔読んだメディチ家に関する本 http://d.hatena.ne.jp/propella/20060910/p2 を思い出したからだ。ご存知のようにメディチ家はダビンチやミケランジェロのスポンサーであり、ルネサンスに大きな役割を果たした支配者一族だ。メディチ家の力の源泉は銀行業だったが、人に金を貸して利子を取るという銀行業は当初キリスト教社会ではタブー視されていた。そこでメディチ家は当初両替商として商売を始め、教会に多額の寄付をしてタブーの矛先をさけながら金融システムを完成させて行った。

なぜ利子を取ることがタブーなのだろう?詳しく知らないけど想像で書く。タブーの多くは無知と恐れから生まれる。お金とは価値を抽象化した物なので、さらにお金と時間を商品にするという利子のメタな視点は抽象的すぎて分かりにくい。分かりにくいから恐ろしい。恐ろしいからタブーになる。

広告につきまとう嫌悪感もこれに似ている。昔の広告は看板やチラシなど形があってわかりやすい。しかしインターネット広告はコンテンツに連動したりクリック課金だったり抽象的になり、言わば直接人の注意対象(アテンション)を商品化した物になっている。つまり、インターネット広告はクリックや時間など、貴重なあなたのアテンションを金で買うものだ。

これが頭に来る人には頭に来る。私たちは自分のアテンションは自分だけの物だと思っている。それを人から奪ったり奪われたり、ましてや貨幣のように人のアテンションと交換可能な財であるとは考えない。だからアテンションと金の交換である広告を見ると恐ろしくなったり騙された気がしてしまう。しかしもしもアテンションについても他の資源と同じように比較優位が言えるなら(比喩として言ってみたが、具体的にアテンションの比較優位がどういう物か考え中)、交換によって社会全体が豊かになり、その余剰から膨大な利益を上げる事が可能になる。

そんなややこしそうな事考えなくても、直接消費者からウェブの課金をするべきな気もする。しかし Chris Anderson の 『Free: The Future of a Radical Price』 ではもっと詳しくインターネット上の無料モデルについて分析していて、ネット上で少額課金が出来ない理由がはっきりと書かれている。大まかに理由は2つある。一つ目は人は課金される時、金額に関わらずる商品を手に入れるか選択を迫られる。そこで無料と有料に金額以上の心理的な差がついてしまう。二つ目は、もしも心理差が無視出来るほどの高い価格を設定しようとしても、技術的特性からネット上のサービスはどんどん単価が安くなる事が期待されているので高い価格設定自体が無理。という物。

アテンションの交換についてはそのままズバリ Thomas Davenport と John Beck の『The Attention Economy』という本があって、最初の章だけ読んだ。面白いことが書いてあったらまたメモします。とにかく、広告がベストの方法かさて置き、情報の供給が安価になった今、貨幣の交換を制したメディチルネサンスを生み出したようにアテンションの交換を制する者が新世界を生み出す事に間違いない。