とある初夏の昼下がり、ふとデザイナーの A ちゃんの画面を見ると、可愛らしい猿の絵があった。
「なにこれ?」
「あんまり T さんがサルサル言うから、サル描いたったw」
セクハラ社長の T さんは女の子相手に、サルみたいに毎晩ヤってるやろーとか、毎日そんな話ばかりしていたのだ。それを目ざとく見つけた T さん、
「これ、ええやん。これ使おう。さるさる日記にしよう!」
これが「さるさる日記」の始まりだった。
社長の戦略は単純だった。毎朝ニュースをチェックして、これぞと思う海外の新しいウェブサービスを探す。もし日本で誰もまだ作っていなかったら日本向けにアレンジして公開する。さるさる日記もこうして作った数多くのサービスの一つだった。時は 1999 年。まだ ADSL も無く、みんなテレホーダイでネットに接続していた頃だ。まだまだインターネットは若く、無限の可能性があるとされていた。
さるさる日記を提供する有限会社フォーバルは、それまでカウンターやリンク集、掲示板などの CGI を提供していた。それからさるさる日記をはじめに、交換日記の nikkijam.com 、今で言うソーシャルネットワークの wakwak.net、ソーシャルブックマーク、出会い系サイト、懸賞サイトなど何でも作った。
収益はサイバークリックなどが提供するバナー広告が頼りだ。読者のクリック数に応じて広告料が支払われる。しかしゆくゆくは自社で広告代理店を始め、集まった収益の一部を日記作者さんに配分する計画を立てていた。もしも日記作者さんに十分な読者が付けば、彼らは日記を書くだけで十分に生活が出来るようになるだろう。つまり、我々はさるさる日記を中心として日記作者さん、読者、広告出稿者の間に自給自足のエコシステムを作り上げる。
当初プログラムは社長が Perl で一人で実装していた。開発に WindowsNT、実行環境は Redhat Linux。当初日記データは単にコンマ区切りのテキストデータを使っていたが、私がさるさる日記を元に作った nikkijam に PostgreSQL を採用すると、それを後で入った I 君がさるさる日記にバックポートした。当初 Perl4 のスタイルで書かれていたが、mod_perl への移行のために少しずつ Perl5 のオブジェクトスタイルに書き換えて行った。
日記作者さんが 3000 人を超えた頃から Linux サーバーに限界が見え始めた。当時私は京都芸大の非常勤もやっていたが、非常勤の日は研究室のマックをこっそり拝借して落ちたさるさるの復旧作業をした。それからさくらインターネット社長の田中さんが熱狂的に薦めるので FreeBSD に移行する事にした。FreeBSD にした途端サーバが落ちなくなった。
仕事の帰りには毎晩のように新大阪の書店に寄って、プログラミングの本や雑誌を探した。勉強になる本は会社の金で買うからすぐ持ってこいと社長は勧めてくれた。こうして毎日のように新しいプログラミングの技術を学び、ウェブサービスに応用した。
2001 年の秋に私はフォーバルを首になったから、その後のさるさるについては知らない。さるさるの改良を続けた I 君もその後会社を去り、さるさるの進化は止まった。私は直接さるさるのコードを触らなかったが、愛着はあった。だから 2004 年に GMO に買収された時はほっとした。そして 2011 年の今、さるさる日記閉鎖の知らせを聞いた。フォーバルを辞める時に、社長に今後十年はウェブの仕事をするなと言われた。別に社長の言う事を聞いた訳では無いが、結果私はウェブから離れ、知らないうちに十年以上経っていた。
いつかさるさる日記の事なんて忘れられてしまうので書いた。すぐ消えると思うけど、http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=10000&log=199906 を読むとさるさる初期の雰囲気が分かる。記憶が曖昧なので間違ってたら教えて下さい。