言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

今までお金について考えた事。

多分だんだんこういう気持ちは忘れていくと思うので忘れないようにメモ。

僕が自分の事を一番貧乏だなと思った事は、大学に通い、生活していた頃だ。小学校の時は、多分周りにお金を持ってる人があまり居なかったので何も感じなかった。そうだなあ。マンガを描きたいのにペンや紙が買えないとか、それくらい。中学になって大石という友人が出来て、初めてお金が欲しいと思った。彼の持っていたステレオから流れる a-ha に感動したのだ。カセットをダビングして、ラジカセを二つ同時に鳴らしてみたが、上手く行かなかった(それなりに面白い音は鳴る)。高校になって新聞配達をしてステレオラジカセとウォークマンを買って、お金は頑張れば何とかなると言う事を覚えた。

そして大学進学。大して行きたいわけではなかったが、これまた大石と話しているうちに美大に行く事になってしまった(漫画家になるのに一番近い道と騙された)。しかし進学だけは個人の努力でどうにかなる金額では無い。研究所(予備校みたいなところ)や受験料で膨大なお金がかかった。親のお金と、育英会からお金を借りて賄った。が、何と浪人してしまった。

浪人時代はバイトばかりしていた。土日は警備員で、平日の朝はコンビニ。昼から研究所に通った。警備員は殺伐としていたが、コンビニのお姉さんは綺麗で、しかも残り物がもらえたので助かった。11月くらいまでバイトしていたが、確か冬期講習と入学料は親に出してもらった。このあたりから、頑張ってもどうにもならないと思い出した。明らかに、こんなに大変な思いをしているのは自分だけだ。入学さえすればバラ色の人生だと言い聞かせて頑張った。

美大に入るともっと大変だった。学費は確か年間44万円だったが、僕が選んだ彫刻科というのは事あるたびに教材の為のお金を集めた。彫刻の授業の最初に、確か三万円持って来いと言われて目の前が真っ暗になったのを覚えている。しかしここで人脈が物を言って、ボランティアの先輩から郵便局の割の良いバイトを紹介してもらい、原付を三万円で売ってもらった。バイトと原付が無ければ僕の学生生活は維持不能だった。

美大と言うところはみんな汚い格好をして貧乏なふりをしているのだが、実は結構金持ちが多い。学生のくせにみんな車を持っていた。彫刻の研修旅行なんて高い時で確か 50 万くらいしたと思う。僕はみんなが旅行に行っている間先生の作品を磨き、お土産として現地ポップスのテープを貰った。テープはわりと良かった。そのうち自分の作品が受けてちょっといい思いもした。院の卒業式の前日には大阪市役所でさくやこの花賞の授賞式があり、お車をご用意しましょうかと役人に言われた(意味が分からなくて電車で帰った)。

美大を出て非常勤講師になったが、平均給与は月三万円くらいだった(非常勤なので毎月違う)。一年が経つころにはキリンや大阪市の賞金も底を尽き、今度は膨大な奨学金を返さなくてはいけないが職は見つからなかった。お金が無いとだんだん酷い事を考えるようになった。自分がこんなに空腹なのは搾取されているからだとか、日本は一部のエリートに牛耳られていて自分は被差別底辺階級のゴミだとか。

拾われて、春からプログラマーを始めた。最初の社長(さるさる日記)とは半ば喧嘩別れになってしまったが、仕事を教えてくれて非常に感謝している。初任給は14万円だったが、二年も経つと倍以上に増えていた。僕はコンピュータの教育を受けた事が一度も無いが、関係なかった。努力すれば報われる日本は良い国だと思った。そんなわけで僕はお金に対して複雑な気持ちを持っている。と、シリコンバレーの研究所にて記す。