言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

学習と日記と教える事と学ぶ事について。

私も日記には色々勉強中の事を書いてます。というか、ちゃんと知っている事は書かずに知り立てほやほやであやふやな事しか書かないので嘘ばかり書いてあるかも。そういう学習ノートとして日記を活用している人は多いと思います。

誰かに説明すると勉強の理解が深まる事は誰しも感じている事だと思います。紀元前にはすでにセネカという人が、教える事によって我らは学ぶのじゃ。と言ったそうです(http://en.wikipedia.org/wiki/Docendo_discimus)。 で、きっとこういう話は学習理論やらで体系的な理論があるはずだと思って調べてみると、同じく Wikipedia に Learning by teaching を語学教育に使っている例(http://en.wikipedia.org/wiki/Learning_by_teaching)がありました。 なぜ教える事が学ぶ事と結びつくのかについてはよくわかりません。そこで、調べる前にまた持論を展開します。

アフォーダンス的な見方では、動物は環境からの刺激に反応して動くのではなく、環境を操作してみた結果を取り込む事によってのみ動くそうです。これは、いわば目が光線を受けて見えるのでは無く、目からビームが出て物を補足するから見えるのだと言ってるような物で一見荒唐無稽ですが一方成る程と思わせる面もあります。

なぜなら、目はビームが出るように振る舞うからです。

目はカメラと違って、物を見るために常に動かす必要があります。じっと一点を見つめると眼前がぼやっとし白くなって見えなくなってしまうというからです。デジカメこうだったら欠陥商品です。逆に歩きながらでもピンボケせず物を見るというのはカメラに出来ない芸当です。それどころか、人間はどんなに落ち着いた人でも実は微妙にゆらゆら動いているそうです。どうしてこんな状態ではっきり物を見る事が出来るのでしょうか?

アフォーダンスの説明では、動物は見るために光を受け取るだけでなく、体を動かし、目を動かし、結果光線が揺らぐのを感じて対象の位置を割り出すそうです。動き続けるのは織り込み済みどころか不可欠です。動かないと見えないのです。という事は常に対象に刺激を与える可能性があります。だからふと視線を感じたり、見られると美しくなるとか言うのは比喩では無いのです。

こうして自分の運動と対象からの光から作り出すモデルと不変項と呼びます。例えばテーブルを見ると目をいくら動かしても向かい合う辺が平行なのは変わらないですが(遠近法的には無限遠点の位置が不変)、これで、ああ、このテーブルは四角だと感じるわけです。

何かを学ぶ時にも、感覚器と同じ原理が働いているんじゃないかなと思います。つまり、人から話を聞いたり本を読んだりした後の状態というのは目に光が入っただけの状態で、まだ不変項が生まれていません。覚えた知識を使ってみたり、人に話たりして、あれ?なんか違うぞと試行錯誤を繰り返すうちにだんだん不変項が生まれてくる訳です。私のように友達の少ない人は仕方が無いから日記にでも書けば良いです。

面白い事に、この例えを進めて試行錯誤が本当に学習に不可欠なのかというと、そうでも無い事も分かります。丸暗記は役に立たないでしょうか?例えば料理を覚えるのに、分量を覚えるか舌を鍛えるかの違いと言えます。分量を覚えるのは、味の試行錯誤で生まれる不変項の代わりに分量という数字を覚えるという訳です。味を覚えなくても分量を覚えれば料理は作れます。この方法の欠点は応用が利かない事です。逆に、私はよく自分のアフォーダンス力を高めるために本も読まず自分の舌だけを信じて料理をしますが、この方法で作った事の無い料理をするのは至難の業です。

最後ぐだぐだですが、ではでは。