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とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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<学級>の歴史学

こんにちは、不登校の親です。『<学級>の歴史学』という本に不登校の原因は「学級」にある!という面白い事が書いてありました。今読み終わったばかりなので、本の後ろから逆にたどって紹介してみたいと思います!

著者 柳治男(やなぎ はるお)

この本の著者柳治男熊本大学の先生でこの本は柳の教職関連の講義の集大成らしいです。中身はかなりねちっこい学校批判ですが、わざわざ教師の卵に学校制度の暗部を十年にわたり講義してきたというのは随分反骨精神のある方なのでしょう。特に歴史部分は大変面白い内容でした。

不登校の原因

不登校の原因ついて、柳は以下のように語ります。

「学級」という仕組みそのものが、事前制御の中に人を組み込み、感情を操って自己抑制を求め、自動的に競争を促すことにより、学級の中の人間の精神的、肉体的バランスを崩すからである。この崩されたバランスを回復したいという衝動が、いじめというような同級生問題を続発させ、不登校問題を生み出している。 (p238)

つまり、いじめや不登校のような問題は「学級」のせいなのです。解決策として「『学級制は多様な学習形態の中の一つに過ぎない』という基本的な姿勢を明確に」(p240) する二つの方法を指摘しています。

  • 児童・生徒をどれだけ「学級」という事前制御された空間世界に隔離すべきかという、程度の問題が議論されるべきである。(p240)
  • 学級制の多様化と選択制の強化が課題となる。(p241)

これだけ読むと、そりゃそーですよねという感想ですが、深く理解するには柳独特の「見える学校」と「見えない学校」という見方を理解する必要があります。

「見える学校」「見えない学校」とは???

巷には数多くの教育理想論がありますが、柳はその議論の中では学校制度の原点の仕組み、すなわち「見えない学校」が見過ごされがちだと指摘します。

p190 図5-2 学校における二重の相互規定関係

  • 「見える学校」
    • 「良い教育」対「悪い教育」、「子供中心」対「大人中心」、教師と生徒とが心を理解し合う「心の教育」対「顧客関係」といった学校が提供する教育の議論(p183)
  • 「見えない学校」
    • 一九世紀の初頭以来、大量の生徒を馴致させるべく営々と工夫が重ねられてきた生徒の組織化のテクノロジーの産物であり、フォーマルな組織構造(p184)
    • 児童・生徒の自己決定権の剝奪という人権侵害をすることによって成立する集団(p205)

「見えない学校」は、もともとの学校の存在意義からくる決して無くせない性質です。ここは結構ややこしい話なので、間違ってるかもしれないけど自分の理解を書きます。

  • 個性を生かした教育のような「良い教育」は難しい。なぜなら「見えない学校」の存在意義とは対立するから。
  • 個性を生かした教育のような「良い教育」は必要だ。なぜなら「見えない学校」を維持するために必要だから。

安価に多くの児童に教育を授けるために生まれた学校が、児童それぞれのニーズに合わせた「良い教育」「心の教育」を行う事は難しいという話は理解できるでしょう。しかしそれだけで無く、逆に「良い教育」はまた学校制度を維持するために生まれた考えでもあり、そこがダブルバインド(板挟み)だ!というらしいです。

学級文化活動

「良い教育」の例として「学級文化活動」の例を紹介します。

一九三〇年代、生活綴り方教師を中心に、「学級文集」・「学級新聞」・「壁新聞」・「学級通信」の編集、「学級誕生会」の開催、「学級ポスト」の設置、「学級歌」の創造および「学級図書館」・「学級博物館」の設置等に代表される学級文化活動が展開された。(p172)

このような活動の背景には、義務教育の普及期であった大正時代の農村では「共同体を基盤とする生活に順応し、狭い地域社会の中で生活してきた子どもたちが、よそ者教師による教室秩序の維持を簡単に受け入れるはずはなかった。」(p172) という事情があります。このような背景で児童の心を惹きつけるためにハイカラな文化を教室に取り入れる事が必要でした。

また、児童だけでなく教師の心を惹きつけるためにもこのような学科外の活動は必要でした。かつて教師という職業は「商人として授業料をあつめる自由業であり、また買い手をもとめて各地をめぐる『放浪教師』」でした。(p225) しかし学校制度の中の教師は、ヴェーバーの言う「労働手段からの労働者の分離」(p225) によって賃金労働者にされてしまいます。「没人格的なシステムに組み込まれた教師にとって、子どもの未来を託された存在として自己の仕事を再確認することは、職業的アイデンティティー確立上、欠くことのできない作業であった。児童中心主義という理想を掲げ、子どもの幸福に全生活を捧げる教師像への自己陶酔は、教師のエネルギーを高揚させるに最良の方法」(p152) なのです。

供給先行型組織「学級」の歴史

さて、このような「見えない学校」はどのように生まれたのでしょうか?学校の特徴は、親や児童の「需要の存在とは関係なく、慈善活動から始まり、最終的には義務教育制度の中に組み込まれたそれであり、供給先行型」(p128)であるところです。なぜ需要が無いのに学校を作ったかと言うと、もともと学校は国では無く、宗教的な動機から生まれた物らしいです。

一九世紀の産業革命が進行するさなか、イギリスにおいて大量に生み出されてきた貧民を救済し、より善き生活へと導こうとする中産階級を中心とするキリスト教の慈善活動の中から生まれてきた。 「学級」とは、都市のスラム街に集まる貧窮児に教育を施して勤勉な生活態度を身につけさせ、また治安の維持を図るために進められた貧民教育(poor education)の中で、子どもを学校へと組織化する方法として作り出されてきた。(p18)

学校の起源について柳は本の大半を使って面白く説得力のあるエピソードをたっぷり紹介していますが、長いのでサワリだけ書きました。

適当な感想

残念ながら本には不登校の解決策は載ってませんでしたが、柳の「供給先行型」から来る問題というのはとてもうまい考えで、教育以外のいろいろな問題にも応用が効くのでは無いかと思いました。個人のニーズと集団のニーズが食い違う分野にはどこにも「供給先行型」が現れると思います。

ちょっと飛躍しますが、例えば「お見合い」なんかも供給先行型でしょう。結婚によって安定した社会を作るというのは個人よりも集団のニーズなので学校と同じような板挟みが生まれます。

  • 恋愛結婚のような「良い結婚」は難しい。なぜなら「結婚制度」は社会の安定のためにあるから。個人に任せると結婚は減り離婚が増えて少子化で社会が維持できない。
  • 恋愛結婚のような「良い結婚」は必要だ。なぜなら「結婚制度」を維持するためには「愛」のような理想と陶酔が必要になるから。

というような戯言を考えてしまいました。