言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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挨拶の為のアイデアノートその2

父が亡くなって十年経つ。私は高校生の頃からあまり父と顔を合わさなかったので父がかつて抱いた野望の細かい部分を随分忘れてしまった。今回親戚が集まるので、検証の意味でもこの無茶苦茶な記憶の断片を纏めておく。

ロケット

まず少年時代の話。父は火薬をペンキャップに詰めてロケットを自分で作り、よく友人たちとロケットの実験をしていたらしい。しかし後悔しているのが、そのロケットがある日間違って爆発し、友人の一人を失明させてしまった事。それからロケットを飛ばさなくなったと言っていた。

ロープウェー

父とは何度か六甲山に登った。特に有馬温泉へ抜けるコースは紅葉が綺麗で、汗をかいた後の温泉は最高だった。父は若い頃から六甲が好きで何度も登ったらしい、また、ふもとからジュースのを担いで上で高く売りつけるような事もやっていたそうだ。少年時代の父の夢はロープウェーを作る事だった。ロープウェーがあればジュースを担いで登らんでいいし儲かる。誰もがロープウェーなんか想像してない時代にお父さんは考えていたのだと言っていた。

六甲有馬ロープウェーは 1970 年の開業で、2004 年にはマイカー利用者の増加により一部廃線になっている。

青年時代

父は宇和島と神戸で少年時代を送ったが、その後東京で母に会うまでの足取りがさっぱり分からない。年金の記録によると宇治の自衛隊に数年居た事が分かっている。それから20代の中頃に就職するまで一体どこで何をしていたのだろう。

後に伯父に聞いた所では、定時制高校を出て二年間自衛隊の通信兵を勤めた後、兄の会社を京都ですこし手伝ったらしい。それから上京して新宿のドヤ街に住み新聞配達を数年続け、その後就職したという話だった。

インベーダー喫茶

これは後から母に聞いた事だが、どうもインベーダー喫茶を作ろうとした事があったらしい。昔のゲーム機はテーブルの下に埋込んだモニター画面を見ながら遊ぶようになっていて、そう言うのを置いた喫茶店を作るためにインベーダーゲームを何台も買ったそうだ。

運動公園

私が中学生の頃のある日、機嫌良くビールを飲んでいた父は私を呼びつけて言った。お父さんは今すごく大きな仕事をしているのだ。いま高槻市(実家のある町)を変えるビッグプロジェクトが進行している。お父さんは今それに関わっていて、成功すれば大金持ちになれるし高槻はガラッと変わる。これから摂津峡の山をがばっと切り開いて巨大なレジャー施設を作り、大阪中から沢山の人が遊びにくるようになる。という事だった。

これは丁度バブル前の景気の良い時代だった。結局この話は詐欺師に引っかかる寸前だったという事だ。

たこ焼き屋

私が高校生の頃にはたこ焼き屋をやりたいというような話も出た。とにかくサラリーマンを辞めたかったようだ。その第一歩として店舗付きの家を購入し、自宅で母にヤマザキパンをやらせた。軌道に乗れば父も店頭でたこ焼きを焼く事を考えていたらしい。

ヤマザキパンは今でいうコンビニフランチャイズみたいな仕組みで、細かい仕入れのアドバイスは本部がしてくれた。しかし貧しい農家出身の母には毎日売れ残りのパンを捨てる罪悪感が耐えられず二ヶ月程で店をたたんだ。

ボカシ

ボカシというのは家庭菜園に使う肥料だ。生ゴミやおがくずから作る。父は晩年ボカシ作りを随分研究していた。かつてヤマザキパンの店舗だった倉庫に沢山容器を置いて、素材の違いによる経時変化と化学的性質を記録していた。母が昔から耕していた家庭菜園の一角を借りて野菜を育て効果を確認し、まめに講習会で発表していた。もはや経済的成功は諦めていたが、ボカシ作りの先生として、自分に満足しているようだった。

膵臓癌の告知の後も、癌を克服した本を売って医療費を取り返すと意気込んでいた。生きていたら 66 歳。定年後も色々な野望を持ち続けていた事だろう。