言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

物の価値について。

Ya--ha!!

言っておくが私は貧乏では無い。貧乏っぽい食事が好きなだけだ。新書を新品で買えるほど金持ちなのでその辺誤解無きよう。油そばは旨そうですね。ちなみに日清焼きそばを簡単に美味しく作る方法。フライパンを使わずなべで茹で、ざるで挙げてごま油をまぶす。これだとフライパンを洗う手間が省け、ごま油で風味は誤魔化せて最高に仕上がる。

食べ物の不思議な所は、金額と美味しさが比例しているわけではない所だと思う。もしかして単なる慣れの問題で、本当のお金持ちの人は安い食事には満足出来ないのかも知れないが、感覚的に一食300円以上はあまり変わらないように思える。300円というのは、例えば200円で12本入ってる菓子パンで一食分なんてのは我慢出来ないという程度。ではどこにお金を払うのかというと、珍しさなのだろう。質が飽和すると珍しさで差別化するしか無い。

これが他の商品、例えば文房具や服なんかはもうちょっと質の飽和点が高い。だから私は100円ショップで買い物をしない。高いといっても飽和点はどこかにはあって、一万円のTシャツを買ってもそれは普通のTシャツに妙な飾りがついているだけで、ネットに入れて洗わないといけなくて面倒だ。世界が発達すると質の飽和点はどんどん低くなるのかな、素晴らしい。飽和点が低くなると最後は無料になる。ソフトウェアが早くも無料になってしまったように。食べ物も教育も福祉もコストがある閾値を下回れば無料になるのかな。

ある共同体の中では取引は行われない。逆に取引の行われない集団を「ある共同体」だと定義する事も出来る。会社の中で僕が先輩に何かを習っても、先輩に授業料を直接払わない。家族の皿を洗ってもそれに対する対価は無い。友達の皿でもまず無い。見ず知らずの人なら対価が必要だ。子供の頃は食費は無料だったが、さすがに今では手ぶらで実家に帰るのは気を遣う。お金の話は義理人情で決まるのではなく、背後のメカニズムで決まる。

フリーソフトウェア言論の自由では無く、もっとビールの無料の視点で語られるべきだろう。ソフトウェアの無料は騎士道精神で成り立っている分けではなく、裏にメカニズムが存在する。無料は言論の自由からの当然の帰結ではない。法律は無料だが、法律書は有料だ。テクノロジーの発達は物を無料に近づける。ソフトウェアで起こっている事は全ての製品に起こる。

例えば農業技術が進歩すれば、農業はレジャーになる。自然と触れ合うことは都市生活者にとっての大きな喜びだ。人々はジムで無限に周るコンベヤの上を走るより、瑞々しい緑と共に汗を流す事を選ぶ。そして、農業を行う為にわざわざお金を払う。そうすれば成果である食料は無料になる。僕らが無料のソフトを公開するためにサーバ代を払うように。

なんの事は無い。過去に戻っただけだ。母が高校に行きたいと言い出し、祖父が出稼ぎの必要を感じる以前には、私の先祖に貨幣は不要だった。先祖は幸せに(かどうかは知らないが)田を耕し、食料は無料だった。祭りは共同体の中だけで盛大に行われ、暇つぶしに藁で神の姿が作られた。都会では事情は違うにしても、私たちは数百年かそこらで貨幣システムをそのようにデザインした。だから生きている間に根本的に変わってしまったとしても驚かない。

で、何の話だ?