言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

挨拶の為のアイデアノート

父が亡くなって5年経つが、あのころは確か丁度バイトから正社員になるかならないかの頃。葬式の時というのは父の会社の偉い人に挨拶したりして、立派な息子としてこの家を守っていきますという姿勢を一応見せなくてはいけない。当時一応勤め人で良かった。フリーターやニートじゃ微妙に気まずい。

父は長らく単身赴任をしていたので僕との接点は殆ど無かった。だから巷にあるような酒を酌み交わしての男同士の交流などは皆無。幼い頃の記憶しか無い物だから、殴られたりひっぱたかれたりした事しか覚えていない。遊んでくれようとはしたみたいだが、僕は虫取りやザリガニつりなんかの子供らしい遊びが嫌いなひねくれた子供だったから、向こうも随分とっつき辛かったと思う。弟は後年随分父と距離を置くようになる。しかし弟は虫取りなんかが好きな子供らしい子供で、反抗の仕方も可愛かったんじゃ無いかな。ひどい事に、晩年モルヒネで耄碌した父は僕の名を忘れても弟の名は忘れなかった。

そんな父でも僕の精神形成には随分影響を与えたと思う。学校を休んでポートピア博に何度も行った。パソコンを買ったのも父だ(しかし買ったのが PC-8001MkII で、正直バカにしていた。当時の趨勢は明らかに FM-7 だった)。父はシンタックスエラーに癇癪を起こしてパソコンを使わなくなったので、僕の物になった。ビデオやなんかの珍しい電化製品を、父は必ず誰よりも最初に買った。以前いかに家が貧乏だったか日記に書いたが、主な原因は父の浪費癖だろう。僕には小遣いさえ無かった。

絵を描かせたのも父だった。理由は良く分からないが、山にスケッチに行ったり、おばあちゃんの絵を描かせたりした。それは強制で描かないと怒られるから描いていたのだが、絵を描くのは得意だったので楽しかった。口笛の吹き方も習った。口笛の吹き方を何通りも教えてくれたのだが、全部覚える事は出来なかった。夏休みには船を作った。ベニヤを買ってきて、曲線を切り、釘で張り合わせてモーターをつけた。スペースシャトルの打ち上げをテレビで見た冬は、スペースシャトルの形の凧を作った。

父は食堂の会社に勤めていたので、テーブルマナーの薀蓄にもうるさかった。スープを食べる時のスプーンの向きや置き方、ワインの注ぎ方、グラスの持ち方。忘れたので全く役に立ってない。役立たずといえば英語。子供の頃英語の特訓コースに通ったと言うのが自慢の一つで、よく英語の意味について話した。と言ってもくだらない物で、ホームランは家に走るからホームランだ!とその程度の話だ。

子供の頃の話になると饒舌になり、よく宇和島の海と山の素晴らしさについて語っていた。山で自作のロケットを飛ばし、海で魚を採ったと言っていた。高校を出てからどうしたのかは良く知らない。住むところも神戸や東京と点々としていたらしい。母に聞いても良く知らなかった。短期間自衛隊にいた事は分かっているのだが、それ以外は謎。僕がいつまでもブラブラしてるのは父譲りか。

40代でマイホームを手に入れたが、単身赴任の連続でずっと一人暮らし。勤務も相当過酷だと聞いていた。一度東京の父の部屋に行ったが、妙に整頓されていたのがかえって寂しかった。まさに会社人間。亡くなる一年前、急に関西に転勤になった。一年でも自宅に住めたのは何かの思し召しだろう。いや、本当は僕は、父は会社に殺されたんじゃなかろうかと思っている。

ある冬の日、入院が急に決まってから葬儀まで半年だった。医者の予想は残酷にも外れる事が無かった。