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とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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陸上客船

O市内にそびえ立つそのビルディング「陸上客船」は、一見ただのカプセルホテルに見える。交通の便が良く、良心的な料金なのでそこそこ人気があるようだ。受付を済ませてから、バーコードのついた緑色の腕輪を受け取る。この腕輪はロッカーキーとして機能する他、ホテル内での支払いをすべて清算する為にも使われるのだ。

正面から見ると気がつかないが、カプセルホテルにしては随分広く、設備も整っている。もちろん巨大浴場にはサウナが備えられ、食堂も充実している。カプセルホテルには珍しく設置されたジムでは、人々が汗を流している。休憩室では古今東西の映画が提供され、図書館と言っても良い程の巨大な図書室に隣接するブースでは、学生風の若者が何やらノートを取っている。各階のベランダと屋上は何故か菜園になっていて、どうやら食堂で提供される野菜の一部はホテル内で栽培されているようだ。ここはホテルとはいえ、あたかも独立した街の機能のミニチュア版を全て備え付けているようである。

ふと従業員の腕を見ると、バーコードの腕輪がある。しかし色は緑ではなく橙。よく見ると食堂や図書室の利用者のかなりの割合が橙色の腕輪をしている。彼らは客では無く住み込みの従業員なのだ。

もしもあなたに何らかの事情でお金が無くとも、陸上客船に泊まる事が出来る。その場合腕輪の色は緑ではなく橙になる。あなたには仕事が用意されその労働の見返りとしてホテルのサービスを利用する事が出来る。多くのサービスは無料だが、煙草やアルコール等は腕輪にチャージされた独自の電子マネーで決済する。ホテル内にはありとあらゆる職種が用意されているので、贅沢を言わなければあなたに合う仕事も見つかるだろう。ホテルに居さえすれば生活は保証されている。

陸上客船の名の由来は、この独特の経済システムにある。市街地にあるにも関わらずここは経済的に外部とは隔離された空間である。海洋を旅する船のように、出来るだけホテル内で完結した小世界を作っている。

陸上客船には多くの人々がやってくる。失業者や長期滞在の旅行者、家賃を払えない貧乏学生やアジアからの留学生たち。陸上客船は何人も受け入れる。ホテルは高度に分業化され、労働効率が良いためにそれだけの余裕がある。失業者の多くはホテルで学んだ技術を元に職を見つけ、「下船」し旅立つ。一部の者はホテル内でのキャリアの階段を登って行き、新たな陸上客船のマネージャになるかもしれない。もしもあなたが望めば、一生を陸上客船で終える事も可能である。外洋で命を落とす船乗りのように、尊厳と共に葬られるだろう。