言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

立ち読みとマイコン

帰れないと分かると日本が懐かしくてくだらない事を思い出す。立ち読みとマイコンは僕の青春だった。今みたいに本棚の心配をするほど気軽に本が買える金の無かった少年時代。僕は立ち読みで何でも覚えた。BASIC はもちろん、マシン語も C 言語も Smalltalk も立ち読みだ(正確には、Smalltalk を知ったのは高校の頃だ)。パソコンを買うお金も無かったので、覚えた知識はパソコンショップで試した。

小学校の三、四年生で、特にお気に入りだったのはジョーシン電気だ。毎日放課後に通って、ゲームを作っていた。作ったプログラムを保存するなんて事は全然気にしていなくて、毎日作って毎日消して、それの繰り返しだった。

覚えているのが、ある日店頭の FM-7 上でグラフィックエディタを作った時の事だ。自分で作ったグラフィックエディタに自分で漫画を描いていると、店員さんがびっくりして寄ってきた。さすがにこれを消すのは可愛そうなのでテープにとってあげようと言われた(当時のプログラムはオーディオテープに記録したのです)。でも僕はものすごく内気だったので、何か良からぬ事が起こると思って自分でリセットキーを押して逃げてしまった。

五年生の時、中古の PC-8001MkII とハードディスクが手に入った。父が買ったものだが、すぐに飽きて僕の物になった。僕が凝ったのは、BASIC で OS のような物を作るという事だった。と言っても単なるランチャだけど。起動直後に立ち上がって自分の作ったゲームを選択出来るようになっていた。自慢はドラゴンクエストに影響されて、マルチウインドウのような仕組みを作った事だ。当時の BASIC はローカル変数が無いのだけど、配列を駆使して再帰を使い、最大8枚のウインドウを表示する事が出来た。そのディスクは今でも実家の机にしまってある。

その当時のパソコン好きは、ネクラと呼ばれて蔑まれていたので、六年生になると僕はパソコンを秘密にした。パソコン好きがばれる事は、多感な小学生にとっては死の宣告にも等しい事で、特にプログラミングなんてとんでもない事だ。小中学校では、馬鹿でスポーツが出来る人間が尊ばれる。スポーツは出来なかったので、せめて馬鹿に振舞った。日本ではアメリカと違ってナードが苛められる事は無いって話があるけど、そんなのは一部のお上品な学校だろう。普通の小中学校だと僕の世代ではそれこそボロカスのケッチョンケッチョンだ。それからプログラムをしなくなり、26歳で生活苦に耐えかねてプログラマを始めるまで実に10年以上真面目にコードを書かなかった。