言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

アートの解釈

Florian さんによる濃い日記 http://d.hatena.ne.jp/Florian/20051228#1135734856 を読んで、全体に返事を書くのは大変なので簡単な所から。

「そりゃ、アートに対して語る人も自身もアートに関わっていたいという幻想を捨て切れないからじゃないのかなぁ。解釈を固定化させる作業を行っちゃった人は、アートの世界にはもう住めないから。自らアートを生み出さなくてもね」

アートのネタバレ忌避説ですか、陰謀説にもなってて面白い。個人的には何かをやってアートの世界に住めなくなるほど、アートの世界にタブーがあるとも思えません。これは難しい話で、人の問題ですから、「空気の読めないやつ」という見えないコードはあるかも知れないけど、見えないから何とも言えません。

逆に部外者の立場から言うと、ゲームの世界では本当に明確な解釈作業って出来てるのだろうかって思います。前に教えていただいた「フロー理論」みたいなのがそうなのかも知れないけど、心理学的なテクニックの説明ならアートでもあります。それこそ、「絵の描き方・鑑賞の仕方」の本ならいくらでもあるでしょう。

今から100年もしたら、エロゲーや萌えフィギュアも同じように「アート」としてしか取られないでしょうし、全く異なる文脈に置いたときには「エンターテインメント」として観賞することはそもそもできないでしょうから

というわけで、やはり文脈依存の問題を強調したいのです。ポイントは、アートは美術館のように背景が白い壁の前で鑑賞するように出来ているという事と、それが近代になって生まれた習慣だという事です。

美術史を全部勉強した所で役に立たないですが、なぜアートがこうなっているかという話は他の近代の出来事とつながっていて面白い部分です(学生時代に習った話なので、すぐ参考図書が挙げられなくて済みません)。構図は科学と同じです。ニュートンが重力を考える時にリンゴの味の事を考えないように、美術館でフレスコ絵画を見ても、本来その絵があったはずの教会の鐘の音について考える必要は無い。背景の有難い教義が無くても、純粋に美しいというのが絵画です。絵画は教会から離れても価値があるというのが近代の考え方なので、その理屈で略奪された浮世絵がボストン美術館にあってもやっぱり有難いのです。

大まかに言って、近代アートは文脈の中で生まれる価値よりも、文脈を離れて生まれる価値を重視したと言えます(といっても「美術史」という文脈があるじゃないかというツッコミは当然あります)。文脈を離れる事には金さえあればアートが手に入るという利点あり、近代社会では重要な点です。ご神体の老木を持って帰る事は出来ませんが、浮世絵は持って帰る事が出来ます。という事でここまでが近代のアートと科学、経済のリンクの仕方です。

オタクの絵やゲームがアートになるかという話は、さらに近代と現代の境目の写真の発明について考えないといけないので、また今度調べときます。ぶっちゃけアートの楽しみとはこういうディティールを語りながら何も考えないで描かれた絵の謎解きをする事です。