言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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実世界

実世界という奇妙な言葉がある。実世界というからにはその反対語は虚世界なのかな?とにかく、コンピュータの情報世界に対してそれ以外のよりリアルな世界の事を大雑把に言っているのだろう。

実世界という言葉は知らなかったが、僕が始めてそれっぽい事に気づいたのは、10代の頃だ。当時パソコンについてたシンセでオルガンの音は簡単に鳴るのに、ギターの音はイマイチだと気が付いた時、リアルとそうで無い物があると感じた。自分でギターを弾いてみると、キュッと弦を擦らせたり、ウイ〜ンと指を震わせていい味を出す事が出来るのに、パソコンだと上手く行かない。音質だけの問題ではなく、演奏には楽譜に表現する事の出来ない揺らぎがあって、楽譜どおりに MML を打ち込んでも全然かっこよくならないのだ。

そのうちバイトでコンサートのドカタをするようになり、スピーカーの音というのが嫌いになった。何を聞いても音楽ではなく、スピーカーの音に聞こえてしまう。僕らは音楽ではなく、スピーカーを聞かされているのだ。音楽のおぼろげな影を想像する事は出来るけど、スピーカーを通じては触る事なんて出来ない。

音を自分で作るようになって、なんとなく原因が分かるようになった。例えば炭が残り火でパチパチ鳴る音一つとっても、ちゃんと記録する事が出来ない。技術的な制約は勿論だけど、どんなに注意深く録音レベルを変えても、記録できるのはその機材で採れる限定的な何かであって、元の豊かな雰囲気はまるで消えてしまう。多分音だけ採ろうとしても無理なのだろう。体験は、もっと全体的で、個人的な物だから、それを定着させる事は出来ない。

けれども不思議な事に、十分に伝えられないはずなのに伝わってしまう物もある。漫画や文章で、なぜ僕らは感動する事が出来るのだろう。スーパーの安っぽいラジカセから聞こえる耳障りな懐メロにさえ足を止めてしまうのは何故なのだろう。体験を全て記録する事が出来ない一方で、私たちは限られた情報から体験を再構築する事が出来る。体験を再構築するために、その基になっているものは何なのだろう。

僕の記憶にある始めての音楽は、テレビアニメの主題歌だ。この事実が話をややこしくさせる。これが母の子守歌だったりすると、実世界の優位性や体験の大切さを主張出来るのだが、小賢しくリアルの大切さを騒ぎ立てるのはかなり大人になってからだ。不思議なのは、何故リアルな音楽体験を持つ前にバーチャルなスピーカーの音楽体験を理解する事が出来たのだろう。

そろそろ疲れたのでヒントとなる記憶を記すに留める。確かアタックナンバーワンの歌だと思うが、初めて買ってもらったそのレコードと同時に記憶しているのはテントウムシの形をした真っ赤な丸いプレイヤーだ。ゆったりと中心に向かう針の動き、演奏が終わった針の寂しさ、回転数を変えた時の愉快な響き。確かにあれは実世界だった。と同時に、それはあやふやな単なる過去の記憶でしかなく、この文章を書くまで思い出す事も無かった虚ろなものだ。