言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

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祟りの文脈

ご心配おかけしましたが、関節の痛みも随分収まり随分元気になりました。昨日なんかパーティだったんだけど、クルクルたこ焼きを焼けるほど回復致しました。で、今日色々原因について考えていて、やはりこれは祟りによるものであろうと言う結論で落ち着きました。

詳しくご説明しますと、まず月曜の晩に箱根に泊まったわけですが、そこに卓球台があったのにも関わらず我々は阿部さんの解説付きで YouTube で富野アニメを観まくってたわけで、これがいけなかった。欲求不満の卓球霊がまずここで私の肘に取り付いたわけです(夜中私が寝ながら卓球をしていたらしいという証言あり)。さらに次の日、導かれるようになぜか靖国神社に参拝に行ったのですが、そこでの不遜な会話が回天の中の人を刺激したという事も十分論理的にありえるわけです。

ここで、祟りとは何かという事を考察してみましょう。これは方程式の未知数 x であったり、虚数 i のような物だと考える事が出来ます。つまり肘の痛みと箱根泊の間に適当な因果関係が見つからない時に、架空の因果関係を仮定する事に合理性があるとき、その仮定を「祟り」と呼ぶ事が出来ます。祟りという言葉には何か暗くて怖いイメージが付きまといますが、まずはそのイメージを払拭して、機能から考える事が重要なのです。

同じような話として、過去の伝説を文字通り受け取ってはいけないという事をお話しておきましょう。過去の伝説それ自体よりもその機能が重要です。機能を通じて我々の日常と共感できる体験に対応出来る事から、この考え方を「マッチング理論」と呼びます。

例えば遊就館では、当然の事ながら神武天皇以来の歴史が語られるわけですが、彼の存在の虚構性自体を語る事はあまりにもネタにマジレスな行為であります。マクルーハンによれば、文書にその論理性や信憑性が要求されるようになるのは出版革命の結果によるもので、それまでの文書とは、単に口承を補助するという役割しか持たない。つまり楽譜だけを見て音楽を再現出来ないように、出版革命以前の文書を今の文書のように読む事は出来無いのです。

我々がギガワロスという時、それが 1,000,000,000 という数字とは何の関連性も無いことは明白であります。しかしそういう文脈が失われた時、どうやってその意味を同定すれば良いのでしょうか。その一つが機能による解釈です。200年後我々の記憶が失われた後でも、子孫達は「ギガ」が持つ機能から、元の意味を想像する事が出来るでしょう。もちろんその意味や雰囲気を正確に再現することは不可能ですが、文字通り解釈することの危険に比べればよほど正しい事なのです。

という話を箱根で延々していたわけ、では無い!