武田さんたちによる、伝説のアクティブエッセイの翻訳が公開されている http://squeakland.jp/author/essays.html 。エッセイを読み進めるうちに、進化論の基本的なアイデアが実感出来るという興味深い物だ。このエッセイについて、なぜこのような題材が選ばれたかや、ビューポインツ研究所が数学をどう捕らえているか等、色々な切り口で考える事が出来ると思うが、メディアという、ナナメから観た側面について考える。
アクティブエッセイを読んで、僕がスクイークを始めた一番最初の動機を思い出した。そして、良く聞かれる、何故わざわざスクイークを作っているんですかという質問の一つの答えになる。単なる一ユーザとして、スクイークが必要な理由は実はあんまり無い。Flash や PowerPoint は優れたソフトウェアなので、パソコンでアイデアを纏めたり発表するための道具としては必要十分なように思える。じゃあ問題は何か。
実は数ヶ月前、テッドさんにアクティブエッセイの「原作」を見せてもらった。それは HyperCard で作られたスタックで、モノクロ画面のシャープな画像のせいか、むしろ今のアクティブエッセイよりも洗練されていて格好良く見えて、動作もきびきびしていた(テッドさんは HyperCard を作ったメンバーの一人だ)。だけど問題なのは、それは僕のパソコンでは動かないという事。Apple が Mac OS9 を辞めてしまっている事もあり、近い将来 HyperCard の稼動するパソコンは地上から消えるだろう。アクティブエッセイのようなコンテンツはスクリーンショットではその価値が分からない。動かす事が出来なければ、それは失われた事と同じ事だ。
僕たちの先祖が文字を使うようになる前、彼らは口伝えで物語を伝えていた。このような口承は、ちょっと想像するより相当正確で、数千年の時を超える事が分かっている(どうやって調べたのか知らないけど)。そして僕たち自身がメディアでもあったわけだ。残念な事に、この能力は文字の発達と共に失われてしまった。今の僕たちが記憶を頼りに情報を伝えるとろくでもない事になってしまう。
文字が広く使われるようになっても長い間、メディアは僕たちの先祖の身体と共にあった。世界の多くの地域において、中世の学問でやる事と言えば、文献を自分達の手で書き写し、そして記憶するという事だ。そしてその後活版印刷技術によって、文字は一挙に世俗化したが、その反面コンテンツを生産する者と消費する者の非対称は決定的になってしまった。
インターネット技術の進歩はその非対称を埋めるように見える。少なくとも、文章や写真という旧世代の技術について言えば、書く者と読む者の関係はいにしえの口承伝説を取り戻したかのようにダイナミックだ(おかげで僕も恥ずかしげも無く駄文を晒す事が出来る)。そして僕たちはもちろん旧世代の模倣に満足する事は出来無いのだが、問題は新しい表現の為には上から下まで自由なメディアが必要だという事。なぜなら自由で無いメディアは、三十年を待たずして失われるから。それではあまりにも短すぎる。
百年後の僕らの子供達に、百年前には何も興味深い物は生まれなかったなあ、と言われないようにしたい。
もちろん、スクイークの目的は他のオーサリングツールの模倣では全然ないわけだけど(だからこんなに開発が遅い)、こういう事をぼんやり考えながら、スクイークの開発が順調に進む事を願っているのでした。