言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

何を目指すべきか?

まず、3D デスクトップについて、これは最終的にどんな形になるかはさて置き、3D デスクトップは実現されるべきだろうと思う。我々は三次元に対する有用なメタファを既に持っていて、それらを活用する事により情報を効果的に操作する事が出来る。何より、我々の視野自体が三次元を二次元に投影する形になっているわけで、コンピュータの利用においてもその機能を極限まで活用するべきだ。

モニター自体を三次元表示にする必要は無いだろう。我々の眼球は確かに二つあるが、遠近感という物は意外と役に立っていないらしい。たとえ平面であっても、適切に表現する事が出来ればきちんと三次元として認識する事が出来る。

次に Croquet のもう一つの目標であるコラボレーション、特に、三次元を利用したコラボレーションという物が、自分にはどうも怪しく感じられる。インターネットが登場してかなりの時間がたつが、未だに我々のコミュニケーションの第一の道具はメールである。たまにメッセンジャーも使うが、三次元を使う必要性はまず感じない。WEB 上で三次元を扱う VRML という規格もあるが、あんまり有効に使われているのを見た事が無い。

20年後のありそうな予想としては、やはり我々はメールを使っているだろうという物だ。たまには二次元のイラストも使うだろうし、スタイルシートにはめ込んで、ちょっとカッコよく見せたテキストも使うと思う。しかし頻度としてはやはりテキスト(一次元)がメイン、たまに画像やレイアウト(二次元)、そしてこれらの情報を三次元上にうまく配置されたモニターで操作しているだろう。

しかしこれは凡庸すぎる意見なので、がんばって違う未来像も考えてみる。そもそも、画像や文字と言ったものが無理矢理な物で、博物館に行ってもこんなに画像ばっかり頑張っている文化は西欧だけである。他の文化では三次元の彫像の方がよっぽど幅を利かしている。これは経済と技術双方の帰結である。

西欧が絵画を偏重する。つまりいわゆるサイトスペシフィックからの脱却を図るようになったのは、それを流通に載せなくては行けないという事情による。つまり、場に依存しすぎた巨大な彫像、祭りで使われる祭具などは動かすと意味合いが変わってしまったり、そもそも動かせなかったりするので流通ルートに乗れないので額縁さえあれば何処へでも動かせる絵画が大きな意味を持つようになった。逆に言うと、それらの技術的経済的制限が取り払われた未来のネットワーク空間は、非モダン的に場に依存した祝祭空間的な物に回帰する可能性がある。

我々が現在扱うコンピュータ上の情報のルーツは、本や絵画にあるだろう。それらは売買する事が出来て、所有する事が意味を持つ。しかし技術的に三次元空間をストレス無く共有できる世界においては、本が立体物より交換しにくいという事は無い。

このような世界においてネットワークを流れるのは文字ではなく歌声であり、画像ではなく演劇であり、場そのものである。かつて我々の先祖が大陸から知識を歌に乗せて伝えたように、いずれ我々がキーボードから生み出す情報も呼吸と共に意味を持つようになるだろう。

えー。だから Croquet はどうなったんだ。。。