言語ゲーム

とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella (MF東京 8/3,4)

日記生活ふりかえり 2003, 2004, 2005, 2006 年

ふと過去を振り返ることにした。

2003 年

日記を書き始めたのは 2003 年で、未踏事業の二年目に集中するため会社を辞めた直後だった。それまでテキストファイルに日々の開発記録を書いていたが、複数台のパソコンで同期を取るため「はてなダイヤリー」を利用し始めた。日記には技術的な事を書いて、日々の記録は BBS がメインだった「未来(2003)」。今読み返すまで忘れていたが BBS に私は「プレゼン資料を請け負う仕事って成り立たないかなー(2003)」と書いている。今の仕事がまさにそれなんだけど、夢というのは叶うと全く有難味が無いものだ「願いは叶うか?(2007)」。

この年の前半はグラフィカル・パーサー・ジェネレーター「言語ゲーム」の続きをやっていた。そのうち言語の面白さというのはモデルにあってパーサーには無いという事に気づき尻つぼみになってしまった。

後半は会社を辞めたりアメリカに行ったりして迷走する。未踏の二年目で目指していたテーマは当初「子供向けユニットテスト環境」だったが、うまく行かず、結局阿部さんのアドバイスで「制約システム」をやる事になった。残念ながら、これは圧倒的に私の知識が足りなかった。今過去の自分に会えるなら、これは多くの人が目指して散っていったテーマなので、もっと簡単な事をやれと言いたい。

この年で印象的なのは SSS2003 で永野和男先生の「表現の道具としてのコンピュータ(2003)」という講演を聞いたことだ。今読み返してびっくりしたが、DSL の研究など、今の自分のゴールはこの時点で明確になっていた。

2004 年

2004 年からぶらぶらした生活が始まる「身の振り方(2004)」。未踏で作った「Skeleton」は一部で大変好評だったが、その不安定さに恥ずかしくて仕方がなかった。さて、この年は鳥取に行ったりノースカロライナに行ったりしながら細かいツールを沢山作った。その中で一番ウケが良かったのが「ODECo(2004)」という、今で言う Box2D みたいな物理演算ライブラリ。画面を見せただけで大ウケなのでプレゼンが超楽だった。ODECo の成功があまりにも嬉しくて「ODECo の唄(2004)」を作曲した。

他にも eToys の進むべき可能性に色々考えた。これは二つの方向性があって、一つは「ロッキー・ブーツ(2004)」に触発されたゲーム的手法(今で言うゲーミフィケーション)。もう一つはメタレベルな eToys 作品が作れないかという方向だ「メタ(2004)」「メタトイ(2004)」「メタトイ・ワーショップ・メモ(2004)」「再びメタトイ(2005)」「再びメタトイについてモスで考える。(2005)」。メタトイについては大学や小学校で機会を頂きワークショップという名の実験をした。また、ツールの開発も積極的に行い「Squeak3.8 日本語版(2004)」、SqueakNihongo7 の開発を開始した。

この年は初めて 3D のプログラムも書いたし、とにかく勉強した。が、一番印象的なのは Greg という元 AtariStar Wars を作ったプログラマと仕事をした事だ「愚痴(2004)」。老人のプログラマに初めて出会った。私は年を取ればプログラムが出来なくなるなんて信じて無かった。が、ここで、年を取ってプログラムを書けなくなった元有名プログラマーと出会ってしまった!

この後、沢山の老プログラマと出会い、プログラマのキャリアについて色々考えた。そして彼らの不幸な点は、若いころに老プログラマが居なかった事じゃないかと思い始めた。表面的なプログラムの技術はこの数十年で大きく変わった。一方で本質的な点はほとんど変わっていない。今のプログラマが幸運なのは、多くの老プログラマに出会い何が変わらないかを学ぶ事が出来る事だ。自分が年を取っても役に立つ本質的な知識とは何だろうというのが自分の中の大きなテーマになった。

2005 年

私の 2005 年の一番大きな仕事は SqueakNihongo7 と Squeakland2005J をリリースした事だ。どうも日記を読むと途中でスーパーパーツ瓶を入れたり「スーパーパーツ瓶の説明(2005)」かなり勝手な事をやっているが、沢山の人と共同して後に広く使われる立派な物が出来たと思う「Squeak Nihongo 7 リリース(2005)」「スクイークランドついに世界を統一(2005)」。

この頃には未踏の貯金も底を付いた。幸運な事に、NICT で Croquer と TVML の研究をする機会に恵まれ「回転しない脳 点を回転させる(2005)」「アニメーションの図形的表現(2005)」「日を無駄にする。(2005)」「漫画っぽく(2005)」「頑張ったよ。ボク。(2005)」「NICT デモ実装メモ(2005)」、毎朝けいはんなに通勤する事になった。社食も安いし大変快適な毎日だった。一ヶ月パロアルトの HP 研究所でも過ごした「Squeak Tweak(2005)」「CBook 設計メモ(2005)」「HP Lab 最終日(2005)」。

この頃印象に残っているのは、阿部さんと未来大でワークショップをした事「次回函館ワークショップ「個体発生は系統発生を模倣する」(2005)」「百均でユーザインタフェースを作る(2005)」や、山本さんの ZOO デスクトップ「ZOO デスクトップ(2005)」「ZOO 再訪(2005)」「ZOO 再訪2(2005)」など。

NICT の後、私は Tinlizzie WysiWiki の開発を始める。平行して OLPC の噂も現実味を帯び始めた「100ドルラップトップはこうなる?!(2005)」「無名ファイルシステム(2005)」「スクイークでドロー系(2005)」。

2005 年を締めたのはペーパークラフトだった。「秋葉原で発表(2005)」「アートの解釈(2005)」彫刻を辞めたと言いつつも自分に出来る表現を何とか模索していた。

2006 年

2006 年最大の発明は WikiPhone だった。今で言うニコニコ生放送Ustream みたいな物だが、オープンなプロトコルでユーザーの振る舞いを垂れ流しする野望を抱いていた。しかしこの頃から VPRI から定期的に収入が入るようになったので遊んでいるばかりにも行かず、またしても野望を果たせなかった。「すごいアイデア(2006)」「WikiPhone(ウィキフォーン) とは何か(2006)」「WikiPhone のコンセプト(2006)」「プロペラとウィキフォーンとものづくり(2006)」「WikiPhone で世界のライブを全て聞く仕組みを作る(2006)」「君も WikiPhone サーバをたてよう!(2006)

前半の仕事は TinLizzie WysiWiki の開発が主だったが「ドッグ・フード(2006)」「UI とは何か?」「日記: Tinlizzie について(2006)」、衝撃的な事にようやく形になり始めた所で VPRI の興味は OLPC に移り、プロジェクトは中止になった。

この年も何度も日米を往復して色んな人と会った。「夏の旅(2006)」「アランさんとの会話(2006)」「アランケイ人となり(2006)」「夏のグレンデールの沈まない夕陽(2006)」「Wikimania2006(2006)」「アップル・ヒル(2006)

OLPC の影響か、社会の仕組みに興味を持つようになった。最初こういう事を研究するジャンルについて全く無知だったが、後にマンキューの本を呼んで経済学と呼ぶことを知る。「みんな金のために働いてるんでしょ。(2006)」「なんとなく最近の下痢と世界の貧困について(2006)」「無料駐輪場による都市計画(2006)」「屠殺とオープンソース(2006)

OLPC 版 EToys は最初細々と一人で好き勝手に作っていた「OLPC のソフトウェアを Windows のエミュレータで動かす。(2006)」「子供は UNDO 出来ない(2006)」、特に Demon Castle (EtoysCastle) は阿部さんや大島さん達と議論したゲーム的教材の私なりの回答だった「ロッキーブーツにリスペクト(2006)」「デーモンとミミ、チュートリアルに関する自分用妄想メモ。(2006)」。秋ごろから大掛かりになり何をするのにもミーティングが必要になった。特に UI 周りの議論は色々面倒で、私は段々と Linux とのインタフェース等低レベルを担当するようになった。議論に参加せずに反省する事も多いが色々勉強にもなった。「gettext その1(2006)」「ALSA プログラミング(2006)」「ALSA PCM プログラミングのサウンドバッファ(2006)」「Ogg(2006)」「Ogg Vorbis(2006)

その他考えていた雑多なこと。「文脈つきペースト(2006)」「カブトムシとシミュレーションに関するメモ(2006)」「円周率(2006)」「モナドとしてのリスト(2006)

私生活では、色々アウトドアな経験をした。「ポンポン山(2006)」「ニッポンのてっぺん富士山頂にて雲海に向かってダイヴ!(2006)」「お寿司屋初体験!(2006)」「六甲ロックなハイキングの巻(2006)